室津の港に寄港した大覚大僧正は、海難被害者の慰霊と祈願のために「法華堂」を建立し、それが基盤となり岡山県大覚寺より来た開山日恵上人が寺として創立したのです。名前の由来は、開山の師範である京都妙覚寺九世大聖院日延上人の院号にちなみ「大聖寺」となったのです。
花谷日成上人(大聖寺21世・大正10年~昭和37年寂)。大聖寺は第2次世界大戦中に明石川崎航空機株式会社で作っていた陸軍戦闘機「飛燕」の徴用工の宿舎に指定されていた。国は学徒動員制度をとっており、花谷上人は市と川崎航空機(株)からの依頼で訓育主任となった。昭和20年1月19日関西初の空襲では大聖寺は残った。そのため川崎航空機(株)の空襲犠牲者327名の大部分を寺に埋葬することになり、昭和34年には正式な墓が完成する。表面には「十方法界万霊」と彫られ、左側面には経文、右側面には「昭和34年満13回忌 三国寺日成」、裏に「川崎航空機株式会社建立」とある。
その後も明石は昭和20年6月9日の明石駅・明石公園周辺を空爆し656名(ちょうど汽車が停まった時に空襲警報が鳴ったため明石公園に逃げ込んだ乗客も含む)犠牲など終戦まで計6回の空襲があり、市内の約85%は焦土と化し合計1560名が犠牲となった。その犠牲者たちの遺骨も大聖寺に埋葬されることとなり明石市の墓も昭和21年春の彼岸である3月に建立された。その墓石は自然石に「戦災死者の精霊」と表に彫られている。
昭和32年~34年にかけて花谷上人は記念事業を行っている。旧本堂に寄付名と金額を記した名板が残されていた。「太平洋戦犠牲諸精霊追善 日蓮大菩薩像奉彫建立」。本堂に祀る御本尊の中心である皆が驚く「等身大より大きな」日蓮大菩薩の木像であった。戦争犠牲者救済のため信仰的祈りと追善供養のシンボルとして特大の祖師像を名古屋の仏師に依頼して作り上げられたのであろう。そして上記の川崎航空機(株)の墓である。他には手洗いなどの整備事業も同時にされている。寄付者は住職花谷日成・丸尾明石市長・川崎航空機株式会社(墓含む)、経本経机など等は総代・世話人等20名ほどが名を連ねている。
昭和41年花谷上人遷化の後住職がいなかったため代理住職をされていた京都の十如寺の福沢上人から、日蓮宗総本山身延山久遠寺にある身延山短期大学(現在は大学)に勤務していた先代の猪俣日康上人は、明石の三国寺住職に推薦の依頼を受けた。「ご本堂に入ると小さな宝前に特大の日蓮聖人像が異様に目立っていた」と当時のことを書いている。また境内の一隅に「太平洋戦争犠牲者の慰霊碑」があり、二重墓の箱の上部に川崎航空機(株)の墓が乗り、下部の地面部に明石市の墓という二段式構造墓になっていて、市の墓石のまわりのドーム部分にはぎっしりと105体の無縁の遺骨が積み込まれていた。「無住で俗人の番人では犠牲者の霊がかわいそうである。霊を供養してあげなければと思い至った。この不可思議な仏縁から知った以上、日蓮宗門の恥を天下にさらすことになると責任を痛感した」とも述べていた。「先々代の花谷上人の遺族並みに福沢上人と相談の結果、単立三国寺の住職の届けをすることを了承し、時々は身延から来て面倒を見ることにした」と記している。
翌年の42年「明石被爆23回忌犠牲者慰霊平和祈願祭」に執行副委員長として列席した。先代は追悼の辞を代表し「戦争と平和」について所信を「平和の祈りは祈る人の心の中に燃え上がる人類愛がなければならない」と絶句し、最後に「近いうちに明石の人間になってお守りすることができたらと誓った」と述べている。昭和43年11月29日身延山を出発し、明石に妻と小3の三女を連れて三国寺に入寺した。寺は無住のために荒れ放題、庫裡は明治40年築で古く痛みが酷く、外壁はところどころ穴がある状態、檀家は住職が遷化して以来四散して、わずか20軒くらいになっていた。
昭和44年2月2日明石公園の高台より、お題目の団扇太鼓を打って玄題口唱し公園内空襲犠牲者の慰霊供養を始めた。以後時間の許す限り毎日慰霊寒修行を続けていた。
昭和44年8月12日。新慰霊塔建立の趣意書を持って川崎重工業(旧・川崎航空機)株式会社の神戸にある本社へ砂野会長を訪問する。砂野会長は先々代の花谷上人の当時は明石工場の工場長で、その後社長となり更に会長になっていた人である。
昭和45年1月19日。川崎航空機空襲犠牲者第25回忌法要を三国寺で開催。川重から砂野会長をはじめ重役が参列。午後からは明石工場で全員と遺族関係者の慰霊祭が挙行されテレビ新聞に報道された。砂野会長は商工会議所会頭を始め関西を代表する経済人であった。「太平洋戦争明石市被爆犠牲者慰霊塔」と川重専務(
当時)であった根元氏に字を記念に書いていただいた。根本氏は27回忌法要にも参列されている。
慰霊塔建設に対しては、昭和21年に市の遺骨と川崎の遺骨が埋葬され市の墓石が建てられ、その後遺族の方々から大聖寺に持ち込まれてきた遺骨の納骨のためにドーム型の二重墓に昭和34年に作りかえられ、その後また納骨廟に積み上げて安置されていた105柱の遺骨を埋葬する場所としての慰霊塔の必要性にかられ発願した猪俣上人の意志によるものである。しかし檀家30軒あまりでは不可能なため、川崎重工や有縁の方々、先代の親戚信者にお願いし資金作りに奔走したと言っていた。高さ5.5メートルの六角堂の屋上に青銅製の2.5メートルの十一面観音銅像を安置し内部は天蓋祭壇があり、明石海峡大橋を眺望できる明石唯一の環境に恵まれた高台にある鉄筋コンクリート作りである。
昭和49年1月19日。川重慰霊祭に入佛式。6月9日の市の慰霊祭にあわせて慰霊塔落慶式と世界平和祈願祭を明石市長・石田会頭・川重砂野会長外川重代表者など参列者多数のもと盛大に挙行された。テレビ・ラジオ・新聞などに、また終戦記念日には必ず報道され、NHKテレビの「戦争を語る」にも慰霊塔が報道された。また神戸のサンテレビにも出演したり、神戸新聞にも50回忌まで数回唱題供養の姿の記事が載せられたこともあった。
猪俣上人は個人的にも戦争体験者であった。終戦は中国満州国で迎え、ソ連軍に連行されシベリア抑留強制労働させられ病気となり帰国。病気を治すために出家得度し僧侶となった。身延山近くの源立寺の住職となり大学に勤務していたが同時期に本山や大きな寺の住職にという推薦があったのを蹴って慰霊供養のために廃寺同然の大聖寺へとやってきた人であった。
震災復興の大聖寺新築の大事業の時にどうしてもしなくてはならないという誓願があった。それは国内明石の犠牲者から国外に目を向け、海外の犠牲者にも敵も味方も区別なく永代に渡る供養の姿を表明した銅像を本堂の屋上にそびえ立てさせ、真南むきに建立し三大誓願の平和国家を祈る姿である。
太平洋戦争犠牲者は昭和16年12月8日米国ハワイ開戦より昭和20年8月15日終戦までに戦死した全ての人々に及ぶはずである。日本列島の中心東経135度にある明石より真南を向き東南東にはハワイ・ミッドウェイ諸島マーシャル諸島・ソロモン諸島・ミクロネシア諸島・マリアナ諸島のサイパン・グアム島・硫黄島、南にはニューギニア・パラオ諸島、西南方向にはフィリッピン・インドネシア・中国・マレーシア・シンガポール・マレー半島・タイ・ビルマ(ミャンマー)など、南太平洋戦争激戦地は広大なのである。海外で戦死した犠牲者は日本・アメリカ・イギリス・オランダ・フランス・東南アジア・中国・韓国などの国々の人々軍人だけでなく多くの民間人など国際的に及ぶ。その犠牲者の多くは自己責任でなく国家最高責任者の判断のもとで戦争にかり出されて犠牲になったのである。
人類史上最大の世界大戦であった南太平洋海域には、いまなお数百万人の犠牲者が海底や島々に遺骨が取り残されたままになっているのである。そういう海外の犠牲者全てに対して末永く祈りと供養が必要なのである。そういう趣旨と目的のために日本を代表する宗教家である日蓮大聖人が世界平和のために海外に向き海抜33メートルJRと山陽電車から見えるようにしたのであった。そのことは同時に遺族が減少していっても銅像の祈る先には戦争の犠牲者が多数眠っていることを後世の人々に教えていることに他ならないだろう。つまり戦争の記憶が埋もれていくことを最小限にくいとめることになるのである。
日本は少子高齢化の時代に進んでいる。海外の激戦地に赴いて慰霊することがますます困難になっている。また南太平洋の海や島々に渡ることも不可能になっている。そういう理由から日本本土から海底や島々が墓場になっている場所に向かい慰霊供養銅像を日本の中心に建立する意義があると思う。
太平洋戦争明石市被爆犠牲者の魂の精霊は、来世に至っても永遠の命を持った存在だ。仏教の教えに従って供養し続ける意義があり、法華経は成仏させるお経であるから、たとえ他宗がやめても日蓮宗大聖寺は宗義としても続けて供養する必要がある。個人的にも私の父は海軍で東南アジア方面から奇跡的に帰国でき、松尾上人父の兄は南方で戦死しておるので続けて行くことが使命だと思っている。
遺族や体験者の方々の高齢化は供養する側にとって厳しい現実だ。川重の慰霊祭は明石工場内にも慰霊供養碑が建立されているので1月19日に会社の代表と総務部が続けてくれている。午前10時から供養碑前で30分の慰霊祭を行い、続けて会社代表3名が大聖寺に参拝して本堂にて慰霊祭、慰霊塔で読経参拝、最後に川重の慰霊墓前にて読経参拝し11時30分修了となる。午後1時からは今は少なくなった遺族や関係者が檀信徒と共に慰霊祭が行われ、空襲の1時53分に黙祷を捧げる。川重明石工場が続く限り毎年慰霊供養祭は続くと思う。
6月9日の明石空襲慰霊祭は、集まりやすいように6月第一日曜日へと変更して続けている。慰霊塔内に住職、外に参拝者が列席という形だ。現在は毎年来られていた遺族や体験者もほとんど参拝されなくなったので、慰霊塔に納骨している信徒と共に、数年前より市会議員の方も参列されての慰霊供養祭となっており、当面は住職一人ということはなさそうである。
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